「もう一つの突き出た陸地は、ペルシャから始まり、エリュトゥラー海に向かって延びている。ペルシャの地、そしてこれに続くアッシリア、さらにアラビアへと続く」(ヘロドトスの『歴史』第4巻39節)
「韓には三種あり 一に馬韓 二に辰韓 三に弁辰」(後漢書韓伝)
「馬韓」= アッシリア 「辰韓」= ペルシャ 「弁辰」= アラビア
「倭」= エジプト
紀元前3650年頃にエジプトでゲべレインがヒエラコンポリスを襲撃しました。ゲべレインは舟でナイル川を南下し、ヒエラコンポリスに上陸しました。"The Gebelein painted linen," "White cross-lined ware bottle from Gebelein (?)" "Wall painting from Tomb 100 at Hierakonpolis" にゲべレインの襲撃が描かれています。
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White cross-lined ware bottle, Gebelein (?), Naqada IA-IIB period © Ägyptisches Museum und Papyrussammlung
「カバ」(ヒエラコンポリスの人々)vs.「クロコダイル」(ゲべレインから来た戦士)
ゲべレインから来た戦士: Mummy S. 293 (Museo Egizio, Torino)
Mummy S. 293 (Museo Egizio, Torino)は、おおよそ紀元前3650年から紀元前3500年頃の男性(20歳から30歳)です。遺体処理に使用された「防腐樹脂」の分析結果から、複雑な混合物が明らかとなりました。植物油を主成分とし、それに比べてごく少量の加熱した針葉樹樹脂、芳香性植物抽出物/「バルサム」、および植物性ガム/糖類を混合したエンバーミング(防腐保存処置)によるミイラであることが判明しました。
Mummy S. 293 (Museo Egizio, Torino) は、古代ギリシャの叙事詩『イーリアス』のアキレウスのモデル
ヒエラコンポリスの HK6 地区(エリート墓地)72号墓に埋葬された若い男性
HK6 地区(エリート墓地)72号墓に埋葬されていたのは、死亡時17~20歳の若い男性で、骸骨は散乱し、墓の床からは指の一部と骨盤の一部だけが発見されました。男性は埋葬後まもなく墓から引きずり出され、遺体と墓の上の木造建築物に故意に火がつけられ、この男性に対する何らかの復讐行為だったと推測されます。副葬品から、この墓はおおよそ紀元前3700年から紀元前3600年のものと推定されます。
HK6 地区(エリート墓地)72号墓に埋葬された若い男性は、古代ギリシャの叙事詩『イーリアス』のパリスのモデル
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| "Hippo comb" from HK6 Tomb 72 at Hierakonpolis |
「カバ」の飾りがある櫛は、HK6 地区(エリート墓地)72号墓に埋葬された男性の骨盤の残骸の上で発見されました。
ヒエラコンポリスの HK29A 地区(儀式会場)は、数回の改修を経て、500年以上(ナカダIIA~第1王朝時代)使用されました。木製の柵に囲まれた縦45メートル、横幅13メートルの楕円形の広場があり、その南側には、アカシア材の4本の巨大な支柱と8本の小さな柱(2列に配置)で囲まれた記念碑的な門がありました。
「神殿」はシュメール語で "E"
(楔形文字の「門」)
「門」はシュメール語で "kan"
「漢の時に朝見する者あり」(魏書東夷伝倭人条)
HK29A 地区(儀式会場)では、フリントナイフによる解体の痕跡に加えて、3万7,500点の動物の骨が発見されており、多数の動物が屠殺され、宴が行われたことを示唆しています。
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| Map of Hierakonpolis |
深さ9m近くのボーリング孔の底部で見つかった河道堆積物が、先王朝時代には水路が存在し、それによって初期のネケン(Nekhen)が島になっていたことを裏付けています。しかし、この水路は初期王朝時代までにはほぼ完全に埋まってしまったため、ネケンはその後、西岸と陸続きになりました。
ヒエラコンポリスの HK6 地区(エリート墓地)は Wadi Abu Suffian にあり、砂漠奥地に位置します。HK43 地区(非エリート墓地)は Wadi Khamsini に隣接する南側の境界に位置します。
「倭人」= Wadi (?)
「倭奴」= ヒエラコンポリスの HK43 地区(非エリート墓地)
「倭奴國(中略)倭國之極南界也」(後漢書東夷伝)
「最も遠くの地には、緋色の1衣服をまとった小さい2人々」(ヘロドトスの『歴史』第4巻43節)
注釈: 1 原語は φοινικηίῃ(フェニキアの/緋色の)
注釈: 2 原語は μικρούς(小さい/卑しい)
HK6 地区(エリート墓地)16号墓の礼拝堂の床下で発掘された47号墓には、男女2体が埋葬されていました。男性は30歳から40歳、軟骨無形成症の小人で、身長は120cm弱でした。女性は25歳から30歳、身長が165cmから175cmでした。彼女は(少なくとも)下半身が粉末の黄土(ochre)で覆われており、その結果、彼女の足は鮮やかな赤色になっていました。
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HK6 地区(エリート墓地)のエリート性を示すのは、一部の墓の規模の大きさ、副葬品の質の高さ、そして墓の上に木造建築物が存在したことです。主要な墓の周りには従属的な墓があり、多くの場合は木製の柵で囲まれ、全体として埋葬地を形成していました。HK6 地区(エリート墓地)は、埋葬された家畜や野生動物の数と多様性において独特です。オーロックス(Tomb 56)はリネンとマットに覆われていて、敷かれていたマットに首に巻かれていたロープの残骸が見つかりました。
「犀牛」(漢書地理志粤地条)= オーロックス (?)
HK43 地区(非エリート墓地)ではナカダIIB-C期(おおよそ紀元前3650-3500年頃)に属する500体以上の遺体が発見されており、そのうち21体の頸椎には切断痕が確認され、喉の切断、一部では完全な斬首が行われたことを示しています。16歳から65歳までの男女が含まれており、そのうち5体(全員若い男性)は頭皮を剥がされた痕が見つかりました。椎骨の切創のほとんどは、第2、第3、第4椎骨に位置しており、腹側(前方)からつけられていました。しかし、犠牲者の遺体には防御創の痕跡は見られませんでした。さらに、頭部への強い打撃により頭蓋骨を骨折した遺体が複数あり、何体かには治癒の痕跡が見られ、また、何体かには致命傷となりました。
HK43 地区(非エリート墓地)Burial 120 は円形の墓で、女性(30~45歳)が胸の上で両腕を交差させ、樹皮が両手足と胴体にきつく巻き付けられた状態で発見されました。樹皮はボスウェリア(乳香)の可能性が高いようです。頭蓋骨の周囲を清掃したところ、頭蓋骨の半分が失われていることが判明しました。少し離れた場所で発見された破片で頭蓋骨を復元した結果、女性は頭部の左後部に強い打撃を受けていたことが分かりました。治癒した痕跡がないことから、この負傷が死因であったと考えられます。頭部の左側の髪は損傷部位のすぐ上の高さで切り取られており、遺体を整えようとした痕跡と思われます。残った髪は正常な外見を保つため、損傷していない頭蓋骨の右側へと梳かされていました。副葬品の土器は割れ、遺体の両側に散乱していました。
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| Location of burials in the southern sector of HK43 |
HK43 地区(非エリート墓地)で発見された3体のミイラ:
Mummy HK43 Burial 71 は若い女性(彼女の髪は1cm少々と短ったため、当初は男性だと誤解された)で、8つの壺と一緒に埋葬されていました。そのうち7つは彼女の頭の上方にあり、マットの上に置かれ、一つだけが彼女の頭の後ろにあり、マットの下に置かれていました。彼女の頭の後ろにあった壺には丸いパンが入っていてましたが、実際の穀粒はほとんど含まれておらず、主に籾殻でできていました。マットの下で、彼女の体はリネンの覆いで覆われていました。彼女の遺体のさらなる検査で、樹脂を染み込ませたリネンで包まれた内臓の一部と思われるものが、胸腔内に戻された状態で発見されました。
Mummy HK43 Burial 16 は女性(30歳以上)で、長い髪の保存状態は良好でした。他の埋葬者とは異なり、髪に大きなリネンのパッドの塊が付着していることから、頭部全体にパッドが施されていたようです。このパッドをを取り除くと、薄くなった髪を補うために、彼女自身の髪をエクステンション(つけ毛)で丁寧に結び付け、中央がかなり盛り上がった、かなり手の込んだヘアスタイルがあらわになりました。これは生前に行われたものなのか、死後の処置なのかは不明です。彼女の髪を調べたところ、色の一部は髪本来と異なり、ヘナ(Lawsonia inermis)で染められていたことが判明しました。
Mummy HK43 Burial 85 は若い女性(16~20歳)で、頭部周囲のマットとリネンのパッドの上層を慎重に取り除いた結果、髪全体が保存されていて、自然なウェーブのかかった肩までの長さの髪型が明らかになりました。他の2人の埋葬者とは異なり、彼女の喉には11箇所の切り傷があり、喉が切り裂かれた(ただし斬首はされていない)後に、首の周りの部分がリネンのパッドで覆われたことをを示しています。彼女の埋葬品に墓用品はなく、膝の間から見つかった丸い土器の破片が数個と火打ち石の破片だけでした。
「倭」は「亻」「禾」「女」であり「亻」は "was-sceptre" と呼ばれる杖に似ています。ヒエラコンポリスの100号墓の壁画には、女王と思われる人物が木の棒を持った姿で描かれています。
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| Wall painting from Tomb 100 at Hierakonpolis, ca. 3500-3200 BC |
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| Book of the Dead of Her-weben-khet, Bab el-Gasus (Egypt), 1069-945 BC © Egyptian Museum, Cairo |
「下戸と大人が道で出会う」(魏書東夷伝倭人条)
「下戸」= gecko (?)
ヒエラコンポリスの HK43 地区(非エリート墓地)で発見された3体のミイラ全てに、樹脂を染み込ませた厚手のリネンのパッドが顎と手の周りに入念に配置されていました。Mummy S. 293 (Museo Egizio, Torino) の手首から採取した繊維サンプルに針葉樹樹脂が明確に検出されたのに対し、胴体の繊維サンプルでは微量成分としてのみ検出されました。これは、ヒエラコンポリスの HK43 地区(非エリート墓地)の顎と手の周囲に配置された樹脂を染み込ませた厚手のリネンのパッドの使用と関連している可能性があります。
「杖 (stick)」は女王ではなく Mummy S. 293 (Museo Egizio, Torino) に属したものです。(イタリア・トリノにあるエジプト博物館で一緒に展示されています)
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| Oracle bone, late Shang dynasty (ca. 1200-1050 BC) © National Museums Scotland |
「亻」 |
December 26, 2024 Takahiko Nakagawa